2014年10月13日月曜日

<受験2>MBA

夏の白馬ジャンプ競技場
ボストンから帰国後、日々の仕事や生活に対して何とも空虚な感覚に襲われた。新卒採用の仕事が一段落して、目先の目標が見えなくなったことに加え、プライベートでも目標を失っていたからだと思う。

プライベートの目標とは、ジャンプの目標だ。私は、ジャンプ競技を大学卒業後も行っていた。競技を始めてわずか4年間で国体に出られるまでになったのだから、自分の伸び代はまだまだあると思っていたのである。お世話になっていた長野オリンピック金メダリスト船木和喜選手のチームに入れてもらって、活動を続けていた。だが、現実は甘くはなかった。平日は仕事後に深夜までジムでトレーニングに明け暮れ、金曜日の夜にジャンプ台のある妙高や飯山・白馬へ車を飛ばして向かい、日曜深夜に帰宅する生活。月曜日の朝から
くたびれきって出勤するような状態だったし、貯金もみるみるうちに減っていった。これに加え、大阪への転勤も重なって益々合宿地への距離が離れた。最終的に、貯金が底を突いて活動が困難になったことに加えて、深夜に大阪から長野へ向けて高速道路を走っている際に居眠り運転をして事故を起こしかけたことが決定打となり、さすがに競技活動を断念せざるを得なくなった。

この苦い経験を通じて知ったのは、困っていたのは私に限ったことではないということだった。特に資金不足は深刻で、船木選手ですら競技活動と平行して資金集めをするのに腐心していたし、ソチオリンピック団体戦銅メダルメンバーのスーパースター伊東大貴選手も2010年のバンクーバーオリンピックの前は、資金どころか所属先すら決まっていなかった。ジャンプの世界では、競技者にしても運営者にしても幼少期からずっとスキーだけに関わってきたという人が多い。競技界で世界が完結してしまって、外部から人材や資金を呼び込んだり、新たな市場へ展開したりというスポーツビジネス的な試みがあまり為されていないと感ずる。結果、競技人気の低下や、バブル崩壊以降の不景気に伴って多くの実業団チームが廃部したことで、多くの選手は所属先や競技資金を得られることができず、引退へと追い込まれていた。私と同世代の選手達も私と同じ時期に、次から次へと引退して行った。

このような悲惨な状況下で、さしたる実績もない私が十分な活動資金を得ることなど不可能に等しいし、この先も見込みは薄い。だから、ジャンプを辞めて仕事に打ち込もうと思った。
当時は社会人になってまだ3年だったから、仕事を頑張ればきっと結果もついてくるし、楽しくなるに違いない。そう思って、平日は普通に出勤して仕事に専念した。土日は家で休んだり、飲んだり、適当に遊んで過ごした。ジャンプをやっていたが故に、できないこともたくさんあったから、それはそれで楽しい生活になるのではないかと思っていた。好きなビールを毎日飲んだり、合コンに行ったり、夜更かししてアニメをみたり、プレステに明け暮れたり。ところが、そんなことをやっても全く満たされなかった。それどころか、結局寝ても覚めても頭に浮かんでくるのはジャンプのことばかり。寝ている間は夢の中でジャンプを飛び、オフィスでも階段を45段飛び降りて、テレマーク姿勢で着地。さらに、専念するはずだった仕事は恐ろしくつまらない。その頃は新卒採用の業務を外れ、社内規程の運用やら就業規則の制定やら、人事部の中でも特に内向きの細かい仕事をすることとなっていたのだが、私は一点集中の細かい業務は苦手中の苦手。しかも新卒採用のような前向きな仕事ではなく、会社の内向きでドロドロした部分に多く触れる仕事だった為、モチベーションは一気に低下し、会社に行くこと自体が徐々に嫌になってきた。
かと言って、辞めても収入が無くては生きていけず、今のままだと大したキャリアチェンジも見込めない。

そんなある時、ふとボストン旅行を思い出した。
「そうだ、会社を辞めて、アメリカにMBAを取りに行けば楽しい生活が送れそうだし、ジャンプの運営側にキャリアチェンジして競技に貢献できるんじゃないか。」



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