「不要不急とは」
コロナ禍が始まって以降、違和感を感じてきたのが「不要不急」という言葉だ。何に違和感を感じたかと言えば、物事の要不要・急不急を第三者がジャッジして延期や中止を迫るという様だ。何が要であり急であるかなど、当事者にしかわからないのではないだろうかと感じたのだ。いずれにせよ、「不要不急」の声を受け、誰かにとっては大切な、多くのものごとが潰されてきた。旅行・修学旅行・忘年会・成人式・大学の講義・部活・レストラン・バー・ロックフェス等々。
しかし、そもそも「不要不急」に該当しないものとは何か。おそらく明日生存するためにどうしても必要なものが然りというのが漠然とこの社会で共有された認識では無いかと思うが、そうだとすると、逆に「不要不急」で無いものを探す方が難しくなる。
コロナ禍で真っ先にターゲットにされた旅行やスポーツ・文化芸術はもちろんだが、教育のように中長期の成果を求めるものも「それは明日生存するために絶対に今行う必要があるのか」と問われれば、答えに窮してしまう。考えれば考えるほど、我々が日々営んでいる活動とは、直ちには人命に関わらない「不要不急」のことばかりであることに気付くのである。人間とは「不要不急」の塊なのだ。
裏を返すと、人間が他の生物と決定的に異なる点はそんな活動を行う点にあるとも言えそうだ。例えば、栄養の摂取という生物の最も基本的な活動も、人間は生命維持という本来の目的からは大分かけ離れた「食事」や「美食」という形で行っている。また、単なる空気の振動である音も多彩に組み合わせて「音楽」へと昇華させている。生命維持に必要かどうかという次元に囚われずに、美しさや面白さを感じる。そのような「不要不急」に価値を見出だす点こそが、人間が他の生物と異なる点であり、人間の素晴らしさだと思うのだ。
なぜ「不要不急」のオリンピック・パラリンピックが続き得たのか
さて、1年半に渡るコロナ禍において「不要不急」の最たるものとして、批判の矢面に立ってきたのがオリンピック・パラリンピックであることは今更言うまでもない。そんな大会が、アクシデントや猛烈な批判の嵐に晒されながらも、中止されることなく本日開幕を迎える。
近代オリンピックが1896年に始まって以来、夏季大会で中止されたのは1916年のベルリン大会、1940年の東京大会と1944年のロンドン大会で、いずれも戦争 (第一次世界大戦・第二次世界大戦) に起因している。戦争で生命維持本能剥き出しになった人類は「不要不急」を守れなかった訳だ。それでも第二次大戦終結のわずか3年後の1948年にはロンドン大会が開催されている。第二次大戦での空襲によりロンドンの街も打撃を受けていた他、大英帝国の植民地での独立運動の影響で社会は大混乱しており、まさに「『不要不急』の大会を開く必要があるのか?」との批判が絶えなかったそうだ。しかし、それでも大会は開催され、実際に大戦で引き裂かれた世界の人々の再団結の象徴となり、オリンピックムーブメントを次世代に繋いだ。
オリンピック・パラリンピックとは、確かに多くの人にとっては「不要不急」のものであることは間違いない。オリンピック・パラリンピックが中止されたとして、明日命を失う人はそう多くはいないだろう (なお、私個人はオリパラのために生きているようなものなので、命を失う一人にはなるかと思う) しかし、そんな「不要不急」と言われて吹けば飛んでしまうような儚いものが1世紀以上も、しかも戦争による荒廃と分断をも越えて、なぜ連綿と続き得たのか、その理由・意味を改めて問いたい。
東京大会の意味
今回の新型コロナウイルスの他にも、少し前にはMERS・SARSの流行があったことに表れている通り、感染症流行の頻度が増加している。専門家によると、その背景には大きく以下3つの要因があるという。
- 都市人口の増加 (ウイルスや細菌に好都合な“密”な環境が増加)
- 森林開発 (未知の病原体に感染する機会が増加)
- グローバリゼーション (人々の移動が増加し感染症が全世界へ伝播しやすい状況)
これら3点が今後急速に逆回転するとは考えづらいことから、我々は残念ながらコロナ禍後にも次なるパンデミックが襲ってくることを前提に生きていくことが求められそうだ。
だとすると、今後のオリンピック・パラリンピックや他の大規模イベントも次なるパンデミックの直撃を受けることが想定される。今回の東京大会はパンデミック下でも遂行した初のオリンピック・パラリンピックとして、大規模イベントのモデルケースとなる可能性があり、人類が今後のパンデミックを前提とした社会を生きていくにあたり、極めて意義の高い大会となると考える。
先述の通り、単に生命を維持するだけでなく「不要不急」に価値を見出だせる点が人間の人間たる所以だとすれば、1948年ロンドン大会と同様、不完全であろうとも東京大会はきっと現在そして未来の人々に希望を与える大会になる。
そんな大会をホストシティーの住民として迎える立場でいられることを私自身は大変誇らしく思う。今後、パンデミック前提の社会を生きる人々に対し、「あの時、東京ではオリンピック・パラリンピックまでやったじゃないか。俺たちもできるはずだ!」と、道標とできる大会にしようではないか。
現地で選手に声援を送ること、当選した数少ないチケットを以て両親を招待して一生に一度の親孝行をすること、個人的にはこのような計画は叶わなくなってしまった。それでもTVの前で、選手や組織委員会で頑張っている皆さんを全力で応援したい。
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